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2007年02月12日

植民地での、猜疑と不安

昭和19年、台湾の安藤総督 ( 第10方面軍司令官 ) は 台湾在留の日本人有力者に訓示して、 「 台湾の同胞にして万一敵の上陸部隊に呼応疏通し、わが皇軍を背後から衝くが如きことあらんか、事態は甚だ重大ではないか。しかも私の見るところでは、台湾同胞に対して絶対的信頼を払うだけの勇気と自信はない 」 とのべている。
戦時中の日本の台湾政策は皇民化を唱えて、懐柔の方向にむいていたとしても、心情のまったくの一致というわけにはならなかったのである。台湾人と総督府の間に戦時施策への協力と反抗、不満と猜疑が交差する状況のなかで、いくつかの事件がおきていた。

昭和16年、高砂族による花蓮港紅葉谷駐在所襲撃事件とか、おなじく叛乱容疑で逮捕者千余人の東港事件。昭和19年、叛乱容疑の逮捕者500余人の瑞芳事件。また同年の蘇澳事件は敵との密通容疑で逮捕者70余人と報告されているが、そのいずれも真相は究明されていないとのことである。

このような状況のなかで、大人たちの懸念、母の心配にも無頓着な信子は 無邪気に台湾人とかかわっていたようである。が、その無邪気な子供たちのあそびのなかにも、台湾の人たちに対する差別の言葉はでていたのである。当時の日本人の植民地にたいする感覚は子どものなかにも移っていた。
 「 おまえの父さん支那人で、ショウカイセキ ( 蒋介石 ) にやとわれて、アホ・バカ・マヌケ 」
信子の記憶にある悪態言葉である。 「 チューコンピー 」 も台湾の人たちに対する侮蔑の言葉であったようである。
植民地での日本人の優越感をその意味を理解することもない子どもたちの間にも育ってゆく。そんななかで、台湾人と日本人のことだけでなく、沖縄人と内地人の間にも微妙な立場の相違があることに、子どもながらも 信子は感づいていたと云うのである。


記事の「 社寮島 」とは関係ありません。
投稿者の在所、新潟県北魚沼郡川口町からです。

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二月半ば、一番雪の多い季節なのに今冬は異常である。
魚野川の川原には石が露出している。
里山の雪も少なく、山肌が見えている。
冬なかに晴れの日は滅多にないのに、今冬は不思議である。

でも、この澄んだ空の青さは雪のある冬でないとあらわれない。
青い海と空、と基子に聞いた沖縄の空は、このように澄む日がおおいのだろうか。  

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2007年02月10日

スパイ騒動、疑心暗鬼

空襲のとき避難するのは日本人で、現地の台湾の人たちは慌てたり逃げたりしなかったようなことを信子は話す。餅をついていたとも云うのであって、その状況は何のことか私には見えてこないのである。
日本の台湾領知は50年にもおよんで、その植民地政策はいちおうの成果をおさめて、同化がすすんでいたとされるが、戦時非常時の心情がおなじと云うには無理があったのであろう。このような非常時には、普段とはちがった疑心暗鬼の気持ちが動く。
信子が、知り合いの台湾人の家に遊びに行ったとき、台湾人はいつ心が変わるかも知れないからと、母に注意されとのことであった。その家はとても立派なおうちで、まだ見たこともなかったような調度品あったとかで、中国風のきらびやかな豪華が、信子の印象にのこっていたようである。たぶん学校でのなかまの家で、日本人といっしょの学校に通うことのできるほどの、台湾の上流の家庭だったのであろう。

疑心暗鬼の心は、スパイ騒動にもひろがる。
水産学校の生徒がスパイの話をしている。信子もその話が気になって聞きたいのだけれど、小さな女の子が話のなかに入れるわけがない。少しはなれたところにたって、さりげなく聞き耳をたてる。
軍港が見える場所のことであろうか、アガリヌクチバー ( 東の口場 ) と云うところにスパイがいたとか、山高帽をかむって、ステッキをもって黒いマントを着て、紳士らしくしているのだが、はやく憲兵に捕まるとよいのにと、少女の想像がひろがっていた。憲兵はこわいのだと、こども心にも分かっていたのである。

一トン爆弾が落とされると、見たこともないのだが、富士山が入るような大きな穴ができるなどとの話に、神の山の富士山を、そんなことの引きあいにしてはいけないと憲兵に怒られるのだと、幼い記憶が語っていた。
スパイが小高いところで、提灯を振って合図をしていたとか、警官がとんでいったらもう消えていなかったとかも少女の記憶である。港に日本の軍艦が入るときは、煙幕がはられて見えないようにしていたとも、信子の語りであった。



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魚沼の雪山
前回の写真、雪山アップ 越後川口から


  

Posted by sab at 12:00Comments(2)

2007年02月04日

空襲、消えない記憶

空襲の記憶は、いくつになっても消えることのない記憶のようである。

佐藤春夫の書いた 「 社寮島旅情記 」 料理屋は三軒とあった。信子の語る社寮町の料理屋も三軒である。その一軒の 「 はまのや 」 が爆撃で吹っ飛んでしまったが、信子の 「 おきなわ亭 」 は残ったとか。だが、別に構えていた住まいのところは被災したのか、お雛さまが吹っ飛んで、三つだけ残った。だが そのあとはどうなったのかなと、少女の心のこりも語っていた。
でもお転婆の信子のことであったから、爆弾が海に落ちて、魚が死んで浮いているのを拾ったことなども、思い出の話になっていた。

アメリカ軍の侵攻空襲が激しくなると、騒然とした雰囲気になることはとうぜんである。社寮島の空襲騒ぎのときは、信子の家では炊き出しの準備をした。警戒警報がでると、釜に米を炊いて、皆でおにぎりをつくる。母はあらかじめ沖縄の保存食であるサターアンダギーを用意、近所の人たちへのこころくばりもしていたとのことである。父も母も周囲の人たちの世話をずいぶんとしていたようであった。

だが日本人のこのような騒ぎにも、現地の台湾人にはあまり深刻なことにではならなかった様子が語られてくる。



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魚沼はいま雪の中です。魚野川の正面に雪山がそびえます。

  

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2006年10月16日

社寮島、空襲の記憶

海が大好きな信子は、いつも社寮島の海にあそびに行く。

台湾沖とか、基隆への空襲は連日のことだったのだろうか。海にアイゴを獲りに行ったときなども、しばしば空襲にあったとのことである。警戒警報ぐらいでは、海から帰らない。海に身体を沈めて、顔だけ出して敵の飛行機をみている。
墜落する飛行機からのがれて、足のぶらぶらになっているアメリカ兵を助けるとか、あるいは墜落した飛行機のアメリカ兵に、チョッとした危害をくわえるのは、日本軍につかまって ひどい虐待をされないようにとの配慮からなのだと、社寮島の生々しい戦時とウミンチュの気持ちが語られていた。

信子自身のことでも、防空壕に逃げる途中に 機銃掃射の弾が耳もとをかすめて熱くなったなどの、命拾いの記憶を話すのである。
この戦時中の恐ろしい記憶は生涯 抜けきれない。本土を旅行していて、なにかの合図のサイレンが鳴ると社寮島の空襲がよみがえって、とっさに建物の陰に身を寄せようとする衝動が いまだにつづいているとのことである。
テレビの画面で見たとのことであるが、本土の秋の稲田にめぐらされた銀紙 ( 雀おどしの銀紙のことか ) にも、戦時中のことが思い出されるとか、銀紙にはどんな記憶がつながっているのであろうか。
人形にも万年筆にも爆弾のことを話す。そんな爆弾があったのであろうか。あるいは、そんな話が広められていたのであろうか。

沖縄では今もアメリカ軍の実弾射撃の演習がある。危険な実弾の砲撃で、ヤンバルの山肌が赤い地肌をさらしているとか、山火事の起こるニュースも聞こえてくるのだが、この目にみえる実害だけでなく、信子にとって、また沖縄の人たちにも、砲撃の音で 60年前の戦争の恐怖が 絶えずよみがえるのであろう。



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ずっと書込みが途絶えているうちに、魚沼では稲刈りが済んで、
収納された < 魚沼産コシヒカリ > は、産米検査を受けて、
全国に出荷されています。

→ クリックで 拡大写真、さらに右下の拡大ポイントで もっと大きく。

三郎次の魚沼たより ↓
http://sab9613.noblog.net/blog/a/index.html  

Posted by sab at 23:55Comments(4)

2006年08月28日

基隆の空襲

昭和19年、戦火の火の粉は台湾にも直接おおいかかるようになる。10月10日の空襲は、信子の学校帰りに爆弾が落ちてびっくりしたと云う。はじめてのことだったので、驚いて逃げ出して、集団下校の列から離れてしまったことは、団体行動を乱したとして学校では叱られ、立たされる罰をうけたとのことである。
10月12日、今度は台湾東沖海上の目の前に敵の軍艦があらわれて、艦砲射撃によったのであろうか、社寮島の火薬工場と造船所が燃えた。信子は火薬工場では、人間の焼死体をはじめて見ることになって 驚かされた。
10月29日、基隆沖の空中戦を目の前にして、アメリカ機であろうか、墜落する飛行機からのがれて捕虜となった金髪女性を見たというのである。

子どものときであったのに、10月10日とか 12日 29日と、細かい記憶を口にするので訊ねたら、何だか知らないけど10月10日だというのである。
10月10日は那覇大空襲の日であった。台湾の沖縄出身者も、この空襲や その後の島ぐるみ戦争が、大きな気がかりとなっていたのであるから、信子の10月10日の記憶は那覇大空襲の記憶と重なってはいないだろうか。

新潟県では、20年の夏に長岡市に空襲があった。長岡は私の川口から30キロほど離れて 山の向こうである。夜中に起こされて空を見ると、山のうえが赤くなっていた。それが8月1日の記憶である。
信子の空襲の衝撃は、私の長岡空襲の印象の比ではないから、10月10日の記憶を錯誤などということも出来ない。
私が台湾空襲をたしかめる手だてなどないのだが、ネットで探ってみると、那覇大空襲のときには 米軍は、日本軍をけん制して 奄美から台湾まで同時に攻撃を加えたとの記述もみつかるので、信子の記憶は違いないようである。

本格的な台湾空襲は10月12日であったと ネットには見えている。つづいて13・14日と 夜昼ない攻撃が繰りかえされたようてである。
社寮島の火薬工場と造船所が燃えたのは、そのときのことであろうか。

信子の語りに基隆や社寮島沖での空襲や航空戦の記憶を聞いていた私にも、後年その様なことに関わる身近な事態を知ることになった。
遠縁ではあるが一族で同姓の方で、海軍兵学校を出て戦闘部隊から特攻隊の隊長となって殉職した人のことを聞かされたのである。
 昭和19年9月とのこと、台湾沖での殉職と語られた古☆島 浩海軍少佐のことは、信子の語りと重なって忘れるこのない深い記憶とる。
 

 
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8月は田舎のムラ祭りのシーズンです。
新潟県と長野県境の津南町秋山郷を尋ねました。
平家落人の伝承をもつ秘境のムラです。
  

Posted by sab at 23:11Comments(0)

2006年08月19日

皇国臣民

沖縄に徴兵令が施行されたとき、一般島民の徴兵忌避の気持ちとは逆に、沖縄の上層指導層の人たちは、国民の義務として兵役を担うことは、晴れて皇国臣民 ( 日本国民 )になれることとして歓迎したということである。
信子の父などが台湾に渡った直後の日露戦争では、沖縄の人たちが日本の戦争に初めて動員され、大勢の死傷者をだした。差別的にみられがちな沖縄の人たちの立場が、戦争への参加で皇国臣民としての市民権獲得の道となっていたのである。台湾海峡をぬけて東シナ海に入ったロシアのバルチック艦隊を発見し、日本の大本営に報告するために一生懸命に舟を漕いだ、宮古島の五人の漁師が英雄になってゆくのである。

信子のお姉さんが軍への協力を志願して出征したことは、本土の人たち以上に皇国臣民であらねばならなかった沖縄の人たちの立場がみえてくるのである。沖縄戦で「ひめゆり隊」「健児隊」をはじめ、多くの民間人が犠牲者となった背景をさまざまに論ずることが出来るが、台湾の信子のお姉さんが追い込まれていった心情と同じことも、そこに見えることを知らねばならない。
お姉さんの志願・出征は、結局は沖縄の立場による世情と時局による強制であったと理解しなければならないことである。出征前に信子を連れ出して千畳敷の潮たまりに遊んだお姉さんは、きっと二十歳の前だったに違いないのに。

沖縄の人たちが帝国日本と皇国臣民の呪縛からのがれたとき、ヌチドゥタカラ( 命どぅ宝 ) という本来の沖縄の思想をとり戻すのであるが、そのためにあまりにも大きな犠牲が払われていた。



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地震災害からの復旧と、大雪による春の遅れで、
今年も田植がおそくなって、ようやくコシヒカリの穂がでました。

 稲の花、日中のほんのわずかな時間だけ開きます。 
 8月15日。  

Posted by sab at 22:31Comments(4)

2006年08月03日

千畳敷 姉の記憶

戦争の記憶のなかで信子が忘れることのないのに長姉のことがある。
信子には三人の姉と二人の兄がいた。戦局が緊迫してくると、多くの若者が戦場にかり出されるのであるが、二人の兄はまだ年齢が若く、信子の家には戦場におもむく人がいなかった。
植民地である台湾では時局に対する世情が鋭敏であったのか、家には出征兵士がいないのだからと、一番上のお姉さんが軍への協力を志願して、ヒルッピンにいってしまったこと。そのまま帰らなかった姉が、軍司令部に出向いたのは出征だったと信子は言う。
二人しか合格しなかった試験をうけての出征だったと繰りかえすのである。

社寮島は日本軍の敗戦後は、国民党政府軍の基地になって立ち入ることの出来ない場所、 と信子は思っていた。
だが今日では和平島と呼ばれて基隆を訪れる人々の観光地に解放されているようである。 
海辺に広がる奇岩の風景は、千畳敷として観光スポットに紹介されている。 
                    
   http://www.tabitabi-taipei.com/youyou/200411/wahei/index.html

姉はは出征するそのまえに、信子を千畳敷につれていって遊んだという。千畳敷の岩の水溜まりに小さい魚がいると姉が教えるのだが、小さかった信子はそれが分からなかったとか。
台北の動物園にも遊びにつれていかれたと、六歳のときの思い出が語られるのである。
十歳以上も齢のはなれていた姉が きれいで聡明だったこと、ヒルッピンからチョコレートを送ってきたこと、そのま帰らぬ人となった姉のことを出征と語る事情について、小さすぎた信子は多くを分かっていなかったようである。

信子の嘆きは、いまいちど 社寮島を訪ね、お姉さんの記憶につながる 千畳敷 に遊びたい思いなのだが、病院に通う日の多い体調で、それの叶わないことである。

       http://www.mobile01.com/waypointdetail.php?id=1475
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梅雨あけのおくれた盛夏です。
栗の実がすこしずつ 大きくなっています。
気がつくと北国には、もう秋の気配が忍びよっています。
 写真はクリックで拡大  

Posted by sab at 21:23Comments(0)

2006年07月28日

きつい戦時教育

学校は徹底した軍国教育、日本の戦時体制を担う青少年教育であることは、内地の私の場合と同じことになるが、日本の出先植民地であるだけに、よりきびしいものが感じられることになる。戦後に沖縄に引き揚げた信子が、そこであたらしい友達にふれながら感じたことは、厳しいとされていた沖縄の戦時体制よりも、台湾での軍事体制の教育環境はもっときつかったと言うのである。

学校には天皇の写真、つまり 「 奉安殿 」 にかかげられた 「 御真影 」 には絶対の尊厳を示さなければならなかった。台湾からの、東京に向いた 皇居遥拝 のことも同じである。
好奇心の強いは一面で、理解し納得したことでないと安易にうけ入れない性格でもあった。入学したばかりの少女の信子には、あまりにもきびしい天皇への尊厳の強制は理解できないことで、うけ入れることは出来なかったようである。ことがらの理解よりも先に、罰をともなう強制が植民地の教育であったのか。
 琉球王朝を引き継いできた沖縄の人たちに、そして台湾の人々にまみえて育った信子には、日本の天皇制はどのような影をおとしていたのか、このことも問われながら、信子の幼い日の記憶は 日の丸・君が代・天皇 の問題として、後々の私に重く語りかけてくるのであった。



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ふと見かけた山百合 (写真はクリックで拡大)


いつか花屋の店頭で見かけた百合の花は「沖縄」とあった。
沖縄の野の百合花は、いつごろが季節なのであろうか。

魚沼でも、川口に隣接する堀之内では、百合栽培が盛んである。
気がつくと、百合の芳香は、栽培百合よりも山百合のほうが、より強くかんじる。  

Posted by sab at 23:49Comments(0)

2006年07月19日

台湾軍の歌

信子の記憶の中に、台湾軍の歌というのもあった。

    「みんなみの守り
    
     歴史のかおる五十年・・・」

これもうろ憶えで、これ以上思い出せないようである。
基隆には日本軍の駐屯基地がおかれ、港には軍の艦船の出入りが多かったようで、その艦船修理のドックもおかれていた様子が信子の口から聞こえてくる。
それで軍人の姿が基隆の街に、社寮島に多く見られたのであろうか、信子には兵隊さんにまつわる学校での、きつい体罰の記憶をいつまでも曳かねばならなかったのである。
 
ネットの上に http://www.geocities.jp/abm168/index.html 
 「 台湾派遣軍の歌 」 が あった。
   
        「 荒波吼ゆる  赤道を
         にらみて起(た)てる  南(みんなみ)の
         護(まもり)は 吾等(われら) 台湾軍
       
         嗚呼 厳として  台湾軍    」

 信子の記憶の歌とは、かならずしも一致していないが、本土から離れていることの地政上の認識から、このような 「 みんなみの守り 」 という歌詞や類似の歌もまた幾つかあったのである。
 ともあれ、このように意味も分からないままに児童が、戦時唱歌をうたわねばならない環境だったのである。


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信濃川出水
先日のアップ写真では流れのなかった信濃川に、今日は長野県豪雨て゜濁流がおしよせてきました。
雨のない日にも、悠々の大河であったのが本来の信濃川と、かっての記憶です。
(小さい写真はクリックして下さい)



濁流
海の波よりづっと小さいでしょうが、それでも不気味です。


西倉橋の上から見下ろす波頭


信濃川と魚野川の合流を望む。川ぞいのコシヒカリ田んぼが水没で無残です。
 (写真はクリックで拡大し、さらに右下の拡大ポイントで 元サイズのおおきさになります。)

kyu次郎 さんの家 →  続きを読む

Posted by sab at 23:35Comments(3)

2006年07月15日

蓬莱の島

信子がとぎれとぎれに口ずさんだ台湾の唱歌は、もちろん私が知らない歌である。

  「 しゅうたい ほうらい たから島
    米は二度なる
    台湾たのしや たから島 」

うろ覚えの歌詞であるが、「 しゅうたい 」 はなんとなく言葉だけの記憶で、意味は分からないのだそうである。幼い信子がその意味を知ることなく、ただ歌っていたのか、あるいは歌わされていたのか、 当時の歌の記憶は私とても同じである。
学校の式典歌、天長節、明治節、紀元節その他のいくつかの歌をうたわされたのだが、学校にあがったばかりのことで、むずかしい歌の意味は分からないままで、無心の唱和であった。

信子の歌の 「 ほうらい 」 は、海のかなたの理想郷、あるいは南の海の中にある理想の島で、古代の タジマモリ が、天皇のために トキジクノカグノコノミ を捜し求めて渡ったとされる蓬莱島を、台湾に比喩してのことであろうか。 ( タジマモリ のことも、天皇への忠節ということで、当時の国民学校2年生か3年生のとき、私も教科書で習ったことである。)

台湾での植民地政策は問題を含みながらも、成果をあげて経済的に発展していた。
南進策を進めていた日本にとって台湾は地政的にも経済的にも大切な拠点となり、宝の島・蓬莱の島となったことになる。これは国策を担って台湾に進出した日本の人たち の自負の歌のようにも聞こえてくる。

信子がうろ覚えの唱歌の本当の様子は確かめることが出来ないが、
     ネットhttp://www.geocities.jp/abm168/ に、

「 台湾 楽しや 」  http://www.geocities.jp/abm168/KOUKA/twtanosi.html  がありました。

        「  米は 二度なる  甘蔗は 伸びる
           名さへ 蓬莱  寳島
           台湾 楽しや  良い所    」
   
蓬莱とか、米は二度 稔ると云うような歌詞は、台湾を意識した当時の唱歌には いくつか唄われていたようで、信子の記憶はそのうちの一つであろう。



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西倉橋の上から信濃川を望む。長野県から日本海に注ぐ天下の長江も、西倉橋下の流れは失せて、広い石河原が露出している。
発電所のために上流で取水しているからである。首都の電車はこのエネルギーで走っているとのことだが、水を失った ふるさとの川 はやはり寂しい。

川口町の各処では地震災害からの復旧工事がすすめられている。橋上の工事場から見える丘陵地の上には、復旧した温泉施設が、ようやく賑わいを取りもどしている。
  

Posted by sab at 23:17Comments(1)