2007年02月04日

空襲、消えない記憶

空襲の記憶は、いくつになっても消えることのない記憶のようである。

佐藤春夫の書いた 「 社寮島旅情記 」 料理屋は三軒とあった。信子の語る社寮町の料理屋も三軒である。その一軒の 「 はまのや 」 が爆撃で吹っ飛んでしまったが、信子の 「 おきなわ亭 」 は残ったとか。だが、別に構えていた住まいのところは被災したのか、お雛さまが吹っ飛んで、三つだけ残った。だが そのあとはどうなったのかなと、少女の心のこりも語っていた。
でもお転婆の信子のことであったから、爆弾が海に落ちて、魚が死んで浮いているのを拾ったことなども、思い出の話になっていた。

アメリカ軍の侵攻空襲が激しくなると、騒然とした雰囲気になることはとうぜんである。社寮島の空襲騒ぎのときは、信子の家では炊き出しの準備をした。警戒警報がでると、釜に米を炊いて、皆でおにぎりをつくる。母はあらかじめ沖縄の保存食であるサターアンダギーを用意、近所の人たちへのこころくばりもしていたとのことである。父も母も周囲の人たちの世話をずいぶんとしていたようであった。

だが日本人のこのような騒ぎにも、現地の台湾人にはあまり深刻なことにではならなかった様子が語られてくる。



記事の「 社寮島 」とは関係ありません。
投稿者の在所、新潟県北魚沼郡川口町からです。
写真はクリックで拡大します。 




魚沼はいま雪の中です。魚野川の正面に雪山がそびえます。




Posted by sab at 22:55│Comments(0)
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