2008年08月15日

台湾の暑い日の記憶、敗戦

信子は、台湾・海山郡で終戦をむかえた。
日本の敗戦を告げる昭和二十年八月十五日の 「玉音放送は」 、台湾にも流れていた。
その日、大切な放送があるとのことであったが、社寮島から台北郊外の海山郡に疎開していた信子の家には、ラジオがない。すぐ近くの日本の軍隊では、きっと放送があるから 「信子、聞いておいで」 と母に言われて、日本軍の駐屯地に向かう。
駐屯地の中に入れないので、裏手の小高い丘に登って様子を見ていると、隊長らしいのが演台に立って、並んでいる兵隊は、うなだれるように頭を下げていた。
放送の天皇の言葉は分からなかったけど、部隊の様子で、なんとなく内容が分かって、日本は負けたのだなと感じて、日の丸がやけに風になびいていたと、国民学校3年(小学3年) の夏の記憶を、信子は話した。
帰りに顔見知りの台湾の少年に 「信子」 と呼びとめられて、 「日本敗けたね」 と云われた。

家にとんで帰って、「敗けたよ」 と話すと、「バカだね、この子は」 と母に言われて、押入れに押し込められたとか。
本当に敗けたことが伝わってから、押入れからだされたのであったと云うのである。
寄留していたドイツ人の商人が、「日本は敗ける」 と云っていたのだが、日本人には信じがたいことだったのか、信じたくないことだったのか、でも母は日本の敗戦を予感していたらしいのだが、「敗け」 がタブーの言葉だった状況で、幼い信子を押入れに入れたのであった。

信子が九歳をむかえる夏の日、国民学校3年生が、事態の意味をどれほどに理解できていたのであろうか。五十年を経て、この日のことを鮮やかに語れるのは、幼いながらもこの日の動きが尋常でないと意識できたのであり、押入れに入れられたことが何であったのかとの思いと重なって、八月十五日の印象は強烈だったことになる。

新潟の魚沼で、月後れの田舎のお盆であった八月十五日は、やはり国民学校3年の私に、忘れない印象の日であった。
夏休みの暑い日、前日に、少年団の団長に言い渡されていた大切な放送のことをすっかり忘れて、魚野川に飛び込んでいた。
お昼ごろ、南の男山の空に浮いていた白雲が、急に黒雲となって広がり、またたく間に頭の上一面を覆ったので、あわてて家に逃げ帰った。家では、お盆でより合っていた大人たちのただならぬ気配に、日本の敗けたことを知った。
台湾・海山郡の日本軍駐屯地に、やけになびいている日の丸を信子が意識しているころ、私はにわかに空いっぱいに広がった黒雲に (それは、いつもの夕立雲だったのであるが) なにか不吉な想いを予感していたのであった。

信子の八月十五日の話を聞いたとき、私にも子どもの時の重い記憶が、いまだ鮮明であることを覚えたのである。



社寮島の記事ではありません。
新潟県北魚沼郡川口町です。



8月15日、お盆の日には、
新潟・魚沼では、コシヒカリの稲穂が出そろいます。



Posted by sab at 22:46│Comments(1)
この記事へのコメント
カータンさんへ

今日このブログで足跡を発見。
12月6日上野公園の川口出展で思わぬ出会いがあって、埼玉のお母様と面会しました。豚児先輩は元気、カータンさんはがんばっておられると伺いました。
初対面ながら会話が弾んで、カータンさん祖母・祖父のこと、さらには祖々父のことにもおよびました。それは私の古い記憶からです。
Posted by sabsab at 2009年12月15日 23:37
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