2005年10月08日

祖母のハジチ

沖縄の女性が受け継いできた針突ハジチの風習は、近代になると蛮風として卑しめられた。
若い女性にはともかく、老女のそれは決して美しくないとも云われた。でも信子は祖母のハジチを 「きれいな」 と話していた。その心根はなんであろうか。
ハジチは手の甲への入れ墨のこと。沖縄の生活や信仰とつよく結びついて、女性たちの両手にほどこされていたと云う。沖縄の永生観念を表した精神文化にふかく根ざした民俗であった。

若い女性の手には、水草のように青が美しく鮮やかな文様であったと云うことであるが、近代化をすすめようとする日本の中央には、沖縄のように 様子の違いのある文化への理解は存在しなかった。
明治十二年の廃藩置県以来、同化政策と風俗改良運動の下で 沖縄的なものの全てが否定されようとしていたのである。

明治三十二年、入れ墨は野蛮な習俗として禁止令がだされる。垣ノ花の祖母の手にきれいな 「 水草のような鮮やかな文様 」 がほどこされるのは、この禁止令の出された前後の年ころにあたろう。
禁止令が出ても、精神文化にささえられたこの習俗を容易にすてることのできない人たちがいた。それも本土の人々の好奇と嘲笑、強い法令の規制でやがて消えてしまうことになる。

信子は母のことでハジチを話さないから、たぶん母の手にはハジチはなかったのであろう。
明治三十五年生まれの女性がハジチの適齢となる大正中期には、おおかたこの民俗は消えていたのであろうか。
佐藤春夫も、大正九年の社寮島の 「琉球女」 にハジチのことは触れていないのである。
だが 「悪風汚俗」 とされて消えてしまうハジチが 沖縄女性の感性にどのように伝わったのであろうか。
少女の日の信子は、祖母の ハジチ がきれいであったと云うのであるから、すくなくとも信子までは沖縄の女性の精神文化が受け継がれていたことになる。
そのことに私が微かな安堵を覚えるのは何であろうか。

信子が受け継いでいたのは単にハジチのことだけではなかった。



祖母のハジチ書込みの「 社寮島 」とは関係ないです。
投稿者の在所、新潟県北魚沼郡川口町です。



地震からの復旧で、田植えの遅れたコシヒカリは、
収穫時になっても やや青みが残っていた。

( 写真はクリック )



Posted by sab at 23:03│Comments(2)
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沖縄のオバアの手の甲には刺青がある人がいるっす。ハジチ「針突」と言って竹で作った針で突いて染めた刺青っす。だいたい明治・大正生まれのオバアが多いっす。結婚した女性のしるし...
第63話 ハジチ (針突)【沖縄ちょっと昔話】at 2006年04月23日 19:47
この記事へのコメント
おくれてしまった田植えやら何やらで、ブログの管理がとどこって、コメントをいただいたことに気づかないですみません。

実際には見たことのない沖縄の針突のこと、話を聞いていただけでのかきこみです。赤瓦の家の縁側に座っているオバアの姿の思い出はない私なのに、なんとなく郷愁にさそわれるのはどうしたことなんでしょうか。
沖縄の風を感じたく、るる丸さんの書き込みも拝見させていただきます。
Posted by 三郎次 at 2006年06月09日 23:06
はじめまして、るる丸といいます。
足跡からきました。
引き込まれるような記事に思わず全部読ませて頂きました。

私も幼い頃に、田舎のオバアの手に、青黒い刺青を見た記憶があります。
くしゃくしゃの刺青の手に触ると、思ったよりも、とても柔らかいサラサラした手をしていました。
赤瓦の家の縁側に座っている、そのオバアの姿を思い出しました。
30年以上前の記憶です。
この記事を読まなければ、死ぬまで思い出すことがなかったと思います。
有難うございました。
Posted by るる丸 at 2006年06月04日 22:24
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