2005年09月15日

明治三十六年の渡台

「 琉球姫 」は台湾各地の料亭や遊郭のいたるところにみられたということである。
この「 琉球姫 」のいる料理屋は大倉組などの開業が嚆矢であったとされる。大倉組は明治初年の政商で、ときの陸軍と密着していた。明治七年の台湾出兵には兵員から食糧までの兵たん輸送を受け持って基盤をきずいた。後に西表島の炭鉱を中心とした採炭事業で台湾に石炭を送り込み、沖縄からは土木人夫などのほかに女性も台湾に送りこんでいた。

信子が祖父の家との記憶にある「おきなわ亭」が、いつ社寮島に開かれたのかはわからない。
一家が台湾に渡ったのは父が七歳のときであったという。トリ年の生まれというから、明治三十年うまれとなる。すると祖父母と父の渡台はまさに明治三十七・八年の日露戦争の前夜となり、日本が本格的に台湾を植民地政策のなかに置こうとしたころにあたる。
渡台してすぐ「おきなを亭」を経営したのか、しばらくしてからの開業なのかもわからないが、日本の台湾統治と「おきなを亭」の歴史は大きく重なることになる。

 明治維新後の日本政府が琉球を併合して琉球藩としたのが明治5年、さらにいわゆる廃藩置県で琉球藩が沖縄県とされたのが明治12年のこと。しかし一気に日本の行政制度の下に領知することが不可として、琉球王朝時代から引き継いだ旧制・旧慣がのこされた。とくに宮古島からその先に連なる与那国までの先島地域には悪税とされる人頭税の制が残って住民は差別的なこの制度に苦しみ、大きく反発したという。
 宮古島での旧制・旧慣 人頭税廃止の住民運動は、東京から遠く離れて本土の政治制度にも疎く困難を極めたが、この先頭に立って指導したのが新潟県出身の中村十作であった。困難な中にも中村に伴われて上京した旧慣人頭税の廃止の帝国議会への要請運動がようやく奏功したのか分からないが、明治36年の帝国議会で人頭税廃止が議決されたという。この年は日露戦争開戦前夜で、ロシア帝国のバルチック艦隊が日本近海に出現するを警戒した日本政府は台湾島の領知支配に本格的に関心を示すころと重なる。(宮古島の人頭税廃止運動を先導した中村十作が新潟県人ということに、私も同県人として強く惹かれることである。)

 信子の祖父母一家が、沖縄の大嶺(現在 那覇空港の敷地となっている。)から台湾に移住した事情を信子は私に語らなかったが、たまたま歴史の偶然か、あるいは日本との政情にも重なったのか、私にはその後者に思えてならない。

佐藤春夫の遊んだ大正九年には、日本からの台湾入りの玄関口にあたる基隆港の入り口に位置する社寮島には、何軒かの料亭が置かれて、船員や沖縄辺りの漁師の憩いの場となっていたようすがうかがえることになる。



明治三十六年の渡台書込みの「 社寮島 」とは関係ないです。
投稿者の在所、新潟県北魚沼郡川口町です

藪なかの山はぎには、赤い花をつけるまで、
気がつきませんでした。今年は開花がおくれたようです。
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Posted by sab at 19:58│Comments(0)
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