2005年09月08日

「 しゃりょうちょう 」

信子はたしか社寮島でなく、社寮町「 しゃりょうちょう 」 と言っていたのだ。
港があって大きな造船所があって、軍の船もそこで修理していたとか。
船が完成して進水するときの祝いに紅白の餅まきがあったこと、人に遅れじと懸命に餅をひろった負けん気の少女が、そこにいたことを楽しそうに信子は話していた。

やや離れた山手にはもう一軒大きなめな料亭があったとか、信子の話である。
お寺もあり、幼なじみの遊び友達も何人かいたようである。
浜に遊んでいて、散歩にくる「ご隠居」おじいさんとのかかわりも、楽しそうであった。
折々に回ってきたのであろうか、富山の薬うりが社寮島にもやってきて、そのみやげの紙風船のことが信子にはなつかしい記憶である。うちわ太鼓をドンドンと打ちながらやってくる旅周りの僧を怖く見つめていた記憶など、新潟の私の思い出とまがうほどで、基隆港外の小島にも、新潟の田舎とおなじ子どもの社会の日々があった。

佐藤春夫の文章とは違った賑わいのある生きいきとした「しゃりょうちょう」が、私のイメージに植えつけられたのである。
信子の 「 しゃりょうちょう 」 と 「 社寮島旅情記」 との違いは佐藤春夫の訪れた大正九年と、信子の幼い記憶の日々との間に流れた二十五年の違いだけなのであろうか。



「 しゃりょうちょう 」書込みの「 社寮島 」とは関係ないです。
投稿者の在所、新潟県北魚沼郡川口町です。

信濃川河岸段丘の魚沼コシヒカリの稲田
(写真はクリックして下さい)



Posted by sab at 23:27│Comments(0)
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