2006年06月25日

信子の学校

信子が学校に上がったのは私とおなじに昭和18年4月のことで、基隆の「真砂国民学校」である。
当時のことだから、国民学校初等科一年生ということになる。学校が基隆のどのあたりか私には分からないが、真砂の名称から、基隆橋を渡ってから海に面した位置かな、と想像してみた。
実際はすこし高台のようで、空襲避難の訓練のとき、裏山にあがると外の海がみえたと言うのである。

昭和十年の 「 基隆市大観 」 は、当時の絵地図である。(http://www5f.biglobe.ne.jp/~travel-100years/kiryru,1935_150.jpgクリック、さらに右 下に通常サイズへの拡大ポイント) ここに当時の小学校などの位置が示されているが、真砂尋常小学校は見えていない。

真砂町は、昭和6年に 大沙灣庄の一部をあらためて成立した区域である。昭和13年の台湾の初等教育機関一覧には、真砂町に尋常小学校が確かめられる。信子の入学はこの小学校が国民学校と改まってからのことになる。

「基隆市大観」でみると、社寮島から橋をわたって通ったという信子の学校から、裏山に上って見た海は、八斗仔の海だったに違いない。ときおり 信子のくちに ハットシ のつぶやきがもれていた。



 書込みの「 社寮島 」とは関係ありません。
投稿者の在所、新潟県北魚沼郡川口町です。
信子の学校
新潟は梅雨入りした今、青葉の季節です。今年は栗の花 がみごと。



Posted by sab at 13:38│Comments(3)
この記事へのコメント
この度グログをはじめました。
別宮様、先だっては有難うございました。
これから社寮島のことなど発信したいと思います。
宜しくお願い申し上げます。

また宮城基子さまとも出会えたらいいなと思います。
Posted by keishokeisho at 2015年06月21日 11:57
「社寮島の記憶」拝読いたしました。私は昭和18年社寮島(今は和平島)の沖縄人集落で生まれた者です。戦争当時は2歳なので当然記憶はありません。しかし母(3年前に96歳で他界)から聞いたたくさんの“キオク”があって、宮城基子様、別宮様のお話が私の耳にはビンビン響いてきます。私の父は1947年の228事件で社寮島にて虐殺されました。台湾当局は未だ認定していません。当局の窓口である「228基金会」と対話と交渉をすすめるなど真相解明に向けて日々活動しているところです。2007年の「228」60周年祈念儀式から昨年2月の65周年儀式まで4回台湾・基隆・和平島へ行きました。ウマリジマのこと、たいへん貴重な「記憶」を発信された貴方様から僭越ながらいろいろとお話をお聞きしたいものです。ご連絡できれば幸甚に思います。よろしくお願い申し上げます。
Posted by 青山惠昭 at 2013年05月23日 15:12
「社寮島の追憶」に感謝                 
小生このたび台湾・基隆市の和平島(旧・社寮町)を65年ぶりに訪ねようと今、いろいろと計画しているところですが、インターネットで基隆市のことを調べている中に沖縄からの手紙「社寮町の追憶」が目に入り、何度も何度も読み返しました。私と同じ記憶を共有している方が、もう一人いることにとても感動しました。しかも宮城基子さんとは同じ年齢(昭和11年生れ)の同級生だったのには驚きました。
基隆橋を渡った国民学校に通学していましたので、同じ教室で共に学び遊んだ友達だったような記憶が少しだけ残っています。
空襲訓練の時は裏山の防空壕に防空ずきんを着用して避難していました。海も見えましたが、「真砂」という校名までは憶えていませんでした。
私が住んでいた社寮町のすぐ近くには、大きな造船所がありましたので、空襲が激しく、まさに九死に一生を得て、昭和21年10歳の時、引揚げてきました。
時は大きく流れていても、共通の風景の中にあの頃の自分をしばし重ねることが出来ました。「社寮町の追憶」のご投稿に感謝申し上げますと共に、宮城基子さんと連絡できれば幸いです。                   
                                 
Posted by 別宮長次郎 at 2011年01月24日 20:11
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