2007年11月28日

海山郡の田植

3月にこの書き込みを離れて8ヶ月余りになっている。忘れないでコメントを下さった方がいて、すこしづづ書き込みに戻りたいと思いました。

基隆・社寮島への米軍空襲が激しくなると、信子は台北からの田舎の海山郡に疎開する。そしてここでもあいかわらずのウーマク振りであったようだ。
信子がその遊びの記憶を思い出しながら語ってくれたことは、新潟の魚沼の田んぼに稲をつくる私にも、興味のあることであった。

台湾人の田植は大勢で賑やかであったとのこと、その田植の田んぼに信子は遊びに行っていたのである。
田んぼの中に並んで田植する人たちを鼓舞するように、畔で踊る人がいたとかと、そんな話であった。
そのときの食事は、一日に何回も食べていたと、その様子を信子の驚きで話すのである。
私の魚沼の田植でも、大勢の田人を応援に頼んで、一気に田植を進めるときには、振る舞いの食事は欠かせなかった。午前の10時ころと、午後の3時ころには、黄な粉をまぶしたおにぎりが用意された。大豆を石臼で挽いたキナ粉には、豊作への祈りの気持ちがこめられていたので、田の神にも、ホウの木の葉に盛った黄な粉の飯が供えられるのであった。
きな粉のおにぎりの中飯は、重労働の田植人のもてなしだけの意味ではなく、田の神まつりの大切な稲作儀礼のひとつだったのである。

台湾の海山郡での田植で、中飯の意味を、少女の日の信子の記憶に問うことはできないが、そこに我われの魚沼と同じ文化の稲作儀礼があったのかと、考えてみたいことになる。柳田國男の稲作文化論が思いうかんでくるのです。


社寮島の記事ではありません。
五月下旬の田植が終わったとき、ホウの葉に盛って田の神に供えた黄な粉飯です。 


私の祈りの稲作儀礼です。
田植の終わりのさなぶりには毎年欠くことのないまつり事です。



Posted by sab at 23:37│Comments(2)
この記事へのコメント
ふえき さま

このページ、居眠りしているところを
ゆりおこして下さいましてありがとうございます。

揺すっていただくことは、イネルギーをいただくことです。
六十年昔の記憶を語ることですから、
揺られることで、元気をとり戻したいと思います。
どうもありがとうございました。
Posted by sabsab at 2007年11月29日 22:36
お元気そうで、何よりです^^。
Posted by ふえきのり at 2007年11月29日 11:44
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