柳田國男 『 海上の道 』

sab

2007年12月08日 01:33

魚沼の田んぼが私の生活の場であったから、信子の幼い記憶の台湾の田んぼや、引揚げた沖縄での稲米のことは、私の関心事になっていた。
そして、日本民俗学の柳田國男の著作にふれたとき、その思いがますます募るのであった。
柳田國男の最晩年の著作、おそらく生涯の思索の集大成とでもいうべき 『 海上の道 』 は、稲を携えて琉球弧を北上した日本人像をえがいている。その柳田の論考の是非はさまざまに論じられて、定まっていない。考古学に否定されようとしたその論説は、近年の稲の農学の成果から見直される気配にもある。東南アジアの島嶼地域に広まりをもった稲の系統が、日本の原初の稲作に大きなかかわりをもったのではないかと論じて、柳田の海上の道論の下支えとなったのである。ジャポニカ米とは別の稲米の系統を、沖縄の在来種に見いだしてのことであった。

信子が台湾の海山郡の稲作の風土に遊んだ記憶は、私を日本の稲作文化の源流へと誘っている。海山郡の稲が、旧来の島嶼型の丈の長い稲だったのか、あるいは日本稲で改良されたジャポニカの蓬莱米だったのか、信子の記憶に問うことはできなくなっていたのだが、おおきな水牛がいてターユが泳いでいる田んぼのようすを思い浮かべると、日本の稲作の祖形にもなっていた芒の長い稲が想像されるのであった。




柳田國男の著作 『 海上の道 』 と、芒のある稲、ない稲
初版本、
昭和36年刊。


信子の稲によって、私は柳田國男の、日本文化の源流を論じた雄大な仮説の論著に惹かれれようになっていた。