2005年08月23日

対馬丸のこと

昨日8月22日は対馬丸の遭難から61年目の記念の日でした。
私のこの、台湾基隆港の小さな 「 社寮島」 のことは、対馬丸のこととは直接に関係ないが、新潟の私が沖縄にかかわる気持ちの原点にあるのは、対馬丸の悲劇のことです。今日は忘れることのないこのことにふれておきます。



昭和20年の冬、新潟県魚沼地方は未曾有の大雪に見舞われていた。
国民学校2年生の、わたくしの学校は5メートルの雪に埋もれ、教室は窓を雪にふさがれていた。
 この雪にうもれて暗い教室のある日、担任の先生が、沖縄の疎開船 対馬丸が米軍の魚雷に撃たれて沈み、大勢の学童が海に投げ出されて、冷たい波間に沈んだことを話した。自分たちと同じ年代の子どもたちの悲劇に、すすり泣きがおこると、先生も児童も一緒に、教室中のみんなで涙した記憶がある。
以後私の気持ちのなかに、対馬丸と沖縄のことが深く刻みこまれることになる。

 20年ほど前、知りあった沖縄の人にこのことを話したら、それは嘘であろう、と私を厳しく糾弾するのでした。
ウチナンチュ(沖縄の人)でない先生が、対馬丸のことを話すわけはない。本土の人に沖縄を思いやる気持ちがあったのか、沖縄の悲劇に涙する本土の人などいなかったはずだ、と言われました。
 このことで、戦争と沖縄のことが一気に、わたくしの心に波打つことになったわけです。
同じひとつ国の国民が、互いを同胞としてを信じあうことのできなかった状況に、戦争の悲劇がいっそう深かったと知ったのです。

 沖縄の心は厳しいのだが、また優しさもあるから、沖縄を訪ねなさい、と金城実氏にさそわれての訪沖は、波之上の小桜の塔(対馬丸遭難者の慰霊碑)を拝したかったのです。
対馬丸の悲劇に涙した少年の日がなかったなら、いま社寮島のことを綴るわたくしもいなかったに違いない。



Posted by sab at 23:25│Comments(2)
この記事へのコメント
ご訪問いただきありがとうございます。
私も不思議なご縁とおもいます。あの昭和19年の夏は、私も国民学校2年生でした。
まもなく3年生になる冬の教室での記憶から、おおくの方との巡りあいをいただいています。沖縄の方との知己もありました。こうしてネットの上での巡りあわせもあります。

このブログは、沖縄の知己の方の話を、私の理解のなかで整理してのつづりです。実地に台湾や沖縄を知ってのことでないので、誤解などの混乱もあろうと思います。どうかお気づきのことなどはご指摘をいただきたく思っています。

対馬丸のことに、身近な実経験としてお話をいただきありがとうございました。
Posted by sab at 2007年02月16日 00:19
不思議なご縁でブログにめぐりあいました。
私は那覇生まれ。19年疎開命令で鹿児島へ。国民学校の2年の夏休みのことでした。上ノ山小学校1年の担任は仲吉先生、2年は新崎先生。仲吉先生は十十空襲でお亡くなりになったことを40年近くたって知りました。3人のお子さんは学童疎開で九州へ。そのお一人と不思議なご縁で手紙のやり取りをしました。40年後のことです。新崎先生とはK大の入学式で娘さんと私が同年だったことでお会いしました。人のつながりはいつかこんな風にめぐり合うものだと思いました。
私たちの乗った引き揚げ船のすぐあとが対馬丸でした。上ノ山、天妃の子供たちがほとんどだったようです。生き残ったお一人からお話を聞くことも出来ました。沈没する状況の記録写真も見ました。胸がつぶれる思いでした。。沖縄で終戦を迎えた同年の2人にも会いました。ヤンバルと台湾に逃げたことを聞きました。私も記憶が薄れないうちに何らかの記録を残したいと思っています。
Posted by 古希を迎えて at 2007年02月14日 12:04
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。